自分にはなんの価値もない―無価値感の発作とそこからの脱却について

この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー18日目(代打)として執筆されました。執筆者は黒川はるひ(@kurokawaharuhi)です。

注:この記事には希死年慮や自傷行為についての記載があります。




 「拗らせ」をより深くする要素として「拗らせを自覚していない」「誰にも話せない」というのがあると思う。私がずっと自覚していなくて、誰にも話せなかったことを書こうと思う。

 小学校の3年生くらいからずっと苦しんでいたことがある。さっきまで普通だったのに、ちょっとしたきっかけで、自分にはなんの価値もない、生きていけないと感じて絶望する、という「発作」が起きるのだ。 

 発作が始まる瞬間はいつも新鮮な驚きがある。「自分には何の価値もなく、これ以上生きていくことができない」と突然に気づきを得るのだ。 高校の現代文で出てくる、夏目漱石の「こころ」に「もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました」という有名な部分があるけれど、発作の始まる瞬間はまさにこんな感じである。身体的な症状についていうと、喉に締めつけられたような違和感や痛みが生じる。後頭部がガンガンと鳴るように痛くなり、顔が火照って赤くなる。呼吸が荒くなり、自分で呼吸を制御できない感じがする。涙が止まらなくなる。時には立っていることも座っていることも困難になり、床に転がってのた打ち回る。思考は「生まれてくるべきではなかった」「生きながらえるべきではなかった」「存在してはいけなかった」という考えがリフレインする。「こころ」のKの遺書で「もっと早く死ぬべきだったのになぜここまで生きてしまったのだろう」というやはり有名な部分があるけれど、やはりまさにこんな感じである。

 そして、絶対に今すぐになんとかしなければいけないと焦燥感が生じる。この焦燥感を解決するためには究極的には死ぬしかないのだが、しかし私は「生まれてくるべきではなかった」「生きながらえるべきではなかった」「存在してはいけなかった」と考えるのと同時に「生きるのをやめてはいけない」「死んではいけない」とも考えていた。生き続けることも死ぬこともできず、自分が二つに引き裂かれるような激しい苦痛があった。

 発作が起こるトリガーは実にくだらないものが多かった。高校生の頃なら、模試が思うような結果でなかったとか。大学生で就活をしていた頃なら、一社お祈りされたとか、その程度のことだった。もっとしょーもなくて、自分でもなぜこれがトリガーになるのか説明がつかないトリガーのこともあった。高校の同級生がある分野でめちゃくちゃ活躍しているのを知ったとか、すれ違った人が「フフッ」みたいな感じで笑ったような気がするとか、大学の授業でイキッた発言をしてしまいクラスメイトが微妙な顔をしていたとか、その程度のこともトリガーになった。就活中は「夜景」が必ずトリガーになり、これは大変参った。夜景は生活や労働を美しく象徴しているように思えて、生活も労働もできない自分という何の価値もない存在がグワーッと迫ってくるような感じがした。

 当然と言えば当然だが、トリガーになるような行動や状況を避けてしまう傾向があった。模試を最初から受けないとか、最初から企業にエントリーシートを出さないとか、家から出ないとか。発作そのものよりもこの行動傾向の方が私の人生により大きな悪影響を与えたと思う。

 発作のことを誰にも話したことはなかった。そもそも、この突然の絶望感に「発作」と名づけたのはごく最近のことだ。家族や学校の先生は、ただ私が落ち込んで泣いているだけだと思っていたと思う。私自身、思春期にありがちな気分の落ち込みとの区別がついておらず、人に相談するような問題なのかどうか分からなかった。もしかしたら他の人は私よりとても強くて、こういうのを乗り越えて生きているのかもしれないと思っていた。それに、もし話したら、話の最中に発作が起きるのを避けられないだろう。さらに、たとえば「そんなことはないよ。あなたはかけがえのない命を持っているんだよ」「人にはみな生きる権利があるんだよ」みたいなことを言われてしまったら、自分がかけがえのない命どころか欠けるべき命の持ち主であり、自分にだけは生きる権利がないという「事実」を突きつけられてしまうと思った。そんな、励ましみたいな程度で済んだらまだマシで、もしかしたら、私の周囲に対する甘えや、年齢不相応な未熟さを指摘されるかもしれない、とも思った。

 発作にどのように対処していたかというと、亀のようにうずくまって嵐がおさまるのをひたすら待ちつつ自傷行為をするのが常だった。小学生の頃は自分の指を噛んだり、壁に頭をぶつけたりしていた。高校生の頃南条あやを知り、やってみようかなと思ってリストカットをしてみたら非常に具合が良かったので、以後10年くらいリストカットにはまった。学校や外出先では自傷行為をしなかった…かというとそんなわけでもなく、学校では授業中にタオルで隠しながら膝を切ったりしていた。年を経るにしたがってだんだん一人でうまく対処できなくなって…いろいろ起こしてしまった(ここはまだ消化できていないのでパスする)

 就職してから通い始めた精神科でデパスを処方された。神が創った薬と言える。もう本当に素晴らしくて涙が出そうになった。嫌な気持ちがシュッと縮んでなんか気持ちよくなって寝てしまう。今まで床でのたうち回ってグワーと苦しんだりいちいち手首切ったりしていたのがアホらしくなるほどよく効いた。仕事中は常に肩や後頭部が鉛が詰まったように重くて痛かったのだがこれもスッと楽になる。高校生の頃デパスなしで模試を受けたり就活中にデパスなしで面接を受けたりしていたことが信じられなくなった。デパスなしでよく頑張っていたなぁ。過去の自分にデパスを分けてあげたい。仕事中は絶対に常にデパスが効いていてほしかった。この頃イライラして先輩などにキレてしまうことが度々あり、めちゃくちゃ職場での評価が低かったのだが、デパスでふわ~んふわ~んとなった私は人当たりがとても良くなり上司や先輩にも受けが良くなった。私自身もデパスが効いているときの私が好きだった。デパス大好きすぎて医者におねだりしまくったら容量はどんどん増えて、朝0.5mg昼0.5mg夕方0.5mg夜0.5mgさらに頓服で1mgという処方になった。

 就職3年目で、ADHDの確定診断を得るため、またADHDをふまえた治療を受けるために転院した。紹介状を読んだ現・主治医は顔をしかめて「なにこの処方。あなた完全に依存症ですよ」と言った。今月は今まで通りに処方するけど来月から頓服だけにするからね!とデパス離脱を強行してきた。困った。困ったけど、ADHD治療薬のストラテラはほしいし、発達障害を診てくれる病院はなかなかなくてけっこう探して見つけた病院だし、デパスを処方してくれない以外は熱心で良い医者に思えるのでこの医者を信じてデパスを減らそうと思った。しかし減らすのが全然無理だったのでこっそり個人輸入を使った。申し訳ない。



 時制が飛びまくっている上にデパスの話ばかりして大変申し訳ない。ここからは時系列で自分語っていこうと思う。さて、就職3年目の終わりに私は発作が原因のすごくやばい問題を立て続けに2件起こし、うち1件を会社で起こしたため、会社の顧問弁護士に出勤停止を言い渡されて実家に帰った。  実家の両親は私を叱ることなく穏やかに迎え入れてくれた。東京のアパートを引き払わせて、私を近所のアパートに入居させて、軽自動車を一台調達して、デイケアに通わせたり農業をさせたりするつもりらしかった。両親が以上の準備を私の意思をまったく確認せずにイソイソと嬉しそうに行っているのを見てこれは非常にやばいなーと思い、すぐに東京に戻った。休職中は週1で上司と面談を受けなければならないということもあったし、しかし会社に戻れるとは全然思えないので、転職活動もしなければならなかった。

 休職中の面談は本来は休職者の体調をみて復帰できる時期を探ったりするためにやるのだと思うのだが、私の場合完全に退職勧奨だった。 いわく、この会社は今後は下請けのシステム会社という立ち位置から脱却し、上流工程やコンサルティングを専門として、お客様に付加価値の高いサービスを提供する企業にシフトしていく。詳細設計以降は基本的には外注してコストダウンをはかる。だからプログラミング以外に得意なことが何もないあなたの居場所はどんどんなくなっていく、ということだった。  

なるほど、やはり会社に戻るのは無理そうなので転職活動をした。正社員として責任もって長く働くのは無理そうなので派遣にした。思っていたよりはるかにスピーディにあっさりと決まり、私は転職した。




 何のやる気もなく、頭がデパスに漬かったままで入職したこの現場での経験が私を大きく変えることになる。

 入職当初は全体的に大炎上していた。朝出社したら上司氏に仕様書を渡されて「実装4時間、単体テスト3時間、2時間でエビデンスをまとめて明日の朝イチで提出してください」とか言われた。私は「納期短すぎでしょう、延ばしてください」と上司氏に訴え、しかし上司氏は一歩も譲らなかった。私は怒りに燃えながら手を動かした。入職一週間でエミュレータの操作もまだたどたどしいのに、これはないだろうと思った。真面目に考える時間がないのでできるだけコピペで済ますことにした。ライブラリを片っ端から開いて使えそうな部分を探した。分からないことが多すぎて手が止まってしまいそうになるので、勝手にベテランぽい人の隣に座って、勝手に質問しながら仕事をした。別にフリーアドレスの会社ではない。

 結局納期を6時間くらいオーバーして提出したのだけれど、そもそも私が聞いていた納期はお客様から提示されている納期ではなくて上司氏が勝手に設定している納期だということが分かった。なんで上司氏は勝手に納期を短縮するのか、そのときは分からなくて、嫌がらせかと思って腹が立った。

 1ヶ月くらい毎日プログラムを書いた。だんだん速度が安定してきた。仕様書と向き合いながらノートに図をぐちゃぐちゃ描くのを30分くらいやれば全体像がつかめるようになった。だんだん、この職場やりやすいなーと思うようになってきた。

 私に指示をするのは上司氏ただ一人である。割り込み仕事も、一度上司氏を通してから私に振られる形になる。ほかのメンバーとペアを組んで作業するときは、上司氏の指示のもとペアを組むことになっている。  上司氏が完全に私をマネージメントして、私の業務をコントロールしている状態がかなり快適だった。私はマネージメント的な業務はすべて苦手である。前職で比較的気に入っていた上司に「黒川さんはプログラミングはできるが誰かに仕事を振ったりみんなの仕事を管理したりするのは絶対に無理」と言われたことがある。一回もやったことがないのに絶対に無理と言われるのだから絶対に無理なんだと思う。

 この作業をやる!終わったらこの作業!終わったらこれ!という風に、上司氏が仕事を一直線に並べてくれたので、私は全力で一つ一つの仕事に打ち込むことができた。自分には集中力が1ミリもないと思っていたが、良い環境だと集中力が一日中持続することが分かった。

 仕様書というたいへんに便利な書類の存在にも感動した。何を作ったらいいかすべてまとまっているではないか。この通りに手を動かせばいいだけではないか。前の会社では仕様書を作る文化がなく、口頭での指示をもとに作業をすることが多かった。私は視覚での情報処理が極端に得意で聴覚での情報処理が極端に苦手なので、聞き逃しや勘違いをよくしてしまい、何度も先輩に同じことを質問してイライラさせてしまったり、イライラしている先輩にこっちがイライラしたり、早とちりしてまったく違うものを作りこんでしまって工数をドブに捨てたりしていた。  仕様書があるので、自分でユーザーに電話して、迷惑そうなユーザー担当者に謝りながら「ここどういう感じがいいですかねぇ」「サンプル的な帳票はございませんですかねぇ」と質問しなくてもいいし、ユーザー担当者とユーザー担当者の上司と自分の上司の言っていることが全然違っていてどうやったらいいのかさっぱり分からないという状態に陥ることがなかった。

 少し手が空いたらドキュメントを読んだりソースを読んだりした。手が空いてないときに、これは後で読みたい、深追いしたい、と思うものがいろいろあり、そういうのを貯めておいて、時間があるときにガーッと読んだ。先人が作った分かりやすいドキュメントがいっぱいあってとても嬉しかった。ワクワクした。

 デパスの量はかなり減らせていた。あまりイライラしなかったので、頓服のデパスもあまり飲まなかった。私は自分の話を聞き流されたりウザがられたりすると過剰にイラッとしてしまう。この現場では、私が質問したり提案したり、文句を言ったりするのをウザがる雰囲気がなかった。むしろ「素直で前向き」と評価してくれた。  障害報告会議で、私が「この対応は暫定対応だったら問題ないと思うんですが、恒久対応とするのはおかしくないですか」みたいなイキッた発言をしたときも、みんな真剣に耳を傾けて考えてくれていて嬉しかった。会議のあとに上司氏が「あの発言は良かった。遠慮せずにもっとやっていいよ」といってくれたのも嬉しかった。


 入職から半年くらい経った頃のプロジェクト打ち上げの最中、上司氏はニヤニヤしながら私を呼びつけ、「黒川さん、どうするの?どうするの?」と訊いてきた。チームの先輩たちもニヤニヤニコニコしていた。上司氏も他のメンバーも、私を正社員として迎え入れたいと思っていることが分かった。正社員になるかどうか、なれるかどうかは分からないけれど、そのときはとにかく嬉しかった。

 実装スピードが高止まりして余裕が出てきたので、ドキュメントをいっぱい書いた。上司氏に「マニュアル作りたいです」と言うとすぐにOKしてくれたし、マニュアルを作りたいと言い出したこと自体を褒められた。人の入れ替わりの激しい現場なので、新規参入者がオンラインのコンパイルをうまく実行できず、変なコマンドを打って開発環境を破壊するなどのトラブルが起きたりしていた。慣れてない人でもすぐ実務に取り掛かれるようマニュアルを整備した。社員の人がどうしても忙しくて手が回らないことをどんどんやっていこうと思った。

 1年も経つと設計をやらせてもらえるようになった。プログラミングしか能がないと思い込んでいたのだが設計も案外できた。私がもっとも力を発揮した、と自分で思っているのはリバースエンジニアリング(既存のプログラムから仕様書を作ること)だった。めちゃくちゃ古いプログラム達を別の言語で書き直す、というプロジェクトがあった。めちゃくちゃ古いプログラムの大半は仕様書が失われているのでプログラムから書き起こす必要がある。私はこの書き起こしが妙に得意だった。  相変わらず工数管理が妙にシビアで、1本につき4時間とか8時間とかしか工数がもらえなかったのだが、私は工数の大小に関わらず、一定の品質を保った仕様書を仕上げることができた。どうやって書いているのと聞かれることがあったが、うまく答えられなかった。書き方を教わったことはなかった。時間と戦いながら夢中になっているうちにゴールが見えてくるという感じだった。たぶんこの仕事が本当に得意で、向いているんだと思った。夢中になって書いたあとの高揚感や酩酊感はデパスに似ていたので、やはりデパスはあまり要らなくなっていた。


 意外なことに、7回目の契約更新をしてもらえなかった。契約満了になった。営業も意外そうにしていた。あれ?正社員にしたいんじゃなかったのか??と思った。自分ではけっこう活躍しているつもりだったのだけど、そうでもなかったのかもしれない。確かに、仕様書をガリガリ書いたプロジェクトが終わったあとは手待ちになってしまうことが増えた。それと、業績がめちゃくちゃ悪化したらしい。

 私はこの会社で3年を勤め上げ、その後は契約社員として直接雇用してもらうことを強く希望していたが、希望は叶わなかった。

 営業から契約満了を告げられたときは「ウッ」となった。例の発作がくる、と思って身がまえた。自分より年下の営業の前で醜態を晒すのは嫌だなぁと思った。しかし意外なことに発作は起きず、私は落ち着いた態度で営業とやり取りできた。落ち着いたまま引き継ぎをやり、案件を探し、面談を受けて仕事を決めた。

 突然の契約満了というな出来事があったのに、発作は起きなかった。発作が起きそうになる気配もなかった。それから一回も起きていない。

 こうして、ずっと苦しんでいた問題があっさり解決してしまった。




 この話はただの自分語りなので、教訓のようなものは特にないと思う。

 この記事ではあえて生育暦を省いたのだけれど、私がずっと苦しい思いをするのは、人生のかなり早くから決まっていたのではないかと思う。

 脱却できたのはかなり奇跡的だった。

 上司氏には感謝しかない。また一緒に働きたい。



 次回の担当者は@tosei0128さんです。